グスコーブドリの伝記





リチア電氣石


三、沼ばたけ(稲田、田んぼ)

 ブドリは、いっぱいに灰をかぶった森の間を、町の方へ半日歩きつづけました。灰は風の吹くたびに樹からばさばさ落ちて、まるでけむりか吹雪のようでした。けれどもそれは野原へ近づくほど、だんだん浅く少なくなって、ついには樹も緑に見え、みちの足痕も見えないくらいになりました。
 とうとう森を出切ったとき、ブドリは思わず眼をみはりました。野原の目の前から、遠くのまっしろな雲まで、美しい桃いろと緑と灰いろのカードでできているようでした。そばへ寄って見ると、その桃いろなのには、いちめんにせいの低い花が咲いていて、蜜蜂がいそがしく花から花をわたってあるいていましたし、緑いろなのには小さな穂を出して草がぎっしり生え、灰いろなのは浅い泥の沼でした。そしてどれも、低い幅のせまい土手でくぎられ、人は馬を使ってそれを掘り起こしたり掻き廻したりしてはたらいていました。
 ブドリがその間を、しばらく歩いて行きますと、道のまん中に、二人の人が、大声で何か喧嘩でもするように云い合っていました。右側の方の髭の赭(あか)い人が云いました。
「何でもかんでも、おれは山師張(ば)ると決めた。」
「やめろって云ったらやめるもんだ。そんなに肥料(こやし)うんと入れて、藁(わら)はとれるったって実は一粒もとれるもんでない。」
「うんにゃ、おれの見込みでは、今年は今までの三年分暑いに相違ない。一年で三年分とって見せる。」
「やめろ。やめろ。やめろったら。」
「うんにゃ。やめない。花はみんな埋(うず)めてしまったから、こんどは豆玉(豆粕のこと。大豆から油を絞ったかす)を六十枚入れてそれから鶏の糞(かえし)百駄(だん)入れるんだ。急がしったら何のこう忙しくなれば、ささげの蔓でもいから手伝いに頼みたいもんだ。」
 ブドリは思わず近寄っておじぎをしました。
「そんならぼくを使ってくれませんか。」
 すると二人は、ぎょっとしたように顔をあげて、あごに手をあててしばらくブドリを見ていましたが、赤髭が俄かに笑い出しました。
「よしよし。馬の指竿(させ)とりを頼むからな。すぐおれについて行くんだ。それではまず、のるかそるか、秋まで見ててくれ。さあ行こう。赤髭は、ブドリとおじいさんに交(か)わる交(が)わる云いながら、さっさと先に立って歩きました。あとではおじいさんが、
「年寄りの云うこと聞かないで、いまに泣くんだな。」とつぶやきながら、しばらくこっちを見送っているようすでした。
 それからブドリは、毎日毎日沼ばたけへ入って馬を使って泥を掻き廻しました。一日ごとに桃いろのカードも緑のカードもだんだん潰されて、泥沼に変るのでした。馬はたびたぴしゃっと泥水を跳ねあげて、みんなの顔へ打ちつけました。一つの沼ばたけがすめばすぐ次の沼ばたけへ入るのでした。一日がとても永くて、しまいには歩いているのかどうかわからなくなったり、泥が飴のような、水がスープのような気がしたりするのでした。風が何べんも吹いて来て近くの泥水に魚の鱗のような波をたて、遠くの水をブリキいろにして行きました。そらでは、毎日甘くすっぱいような雲が、ゆっくりゆっくりながれていて、それがじつにうらやましそうに見えました。こうして二十日ばかりたちますと、やっと沼ばたけはすっかりどろどろになりました。次の朝から主人はまるで気が立って、あちこちから集まって来た人たちといっしょに、その沼ばたけに緑いろの槍のようなオリザの苗をいちめん植えました。それが十日ばかりで済むと、今度はブドリたちを連れて、今まで手伝ってもらった人たちの家へ毎日働きにでかけました。それもやっと一まわり済むと、こんどはまたじぶんの沼ばたけへ戻って来て、毎日毎日草取りをはじめました。ブドリの主人の苗は大きくなってまるで黒いくらいなのに、となりの沼ばたけはぼんやりしたうすい緑いろでしたから、遠くから見ても、二人の沼ばたけははっきり堺(さかい)まで見わかりました。七日ばかりで草取りが済むとまたほかへ手伝いに行きました。ところがある朝、主人はブドリを連れて、じぶんの沼ばたけを通りながら、俄かに「あっ」と叫んで棒立ちになってしまいました。見ると唇のいろまで水いろになって、ぼんやりまっすぐ見つめているのです。
「病気が出たんだ。」主人がやっと云いました。
「頭でも痛いんですか。」ブドリはききました。
「おれでないよ。オリザよ。それ。」主人は前のオリザの株を指さしました。ブドリはしゃがんでしらべて見ますと、なるほどどの葉にも、いままで見たことのない赤い点々がついていました。主人はだまってしおしおと沼ばたけを一まわりしましたが、家へ帰りはじめました。ブドリも心配してついて行きますと、主人はだまって巾(きれ)を水でしぼって、頭にのせると、そのまま板の間に寝てしまいました。すると間もなく、主人のおかみさんが表からかけ込んで来ました。
「オリザへ病気が出たというのはほんとうかい。」
「ああ、もうだめだよ。」
「どうにかならないのかい。」
「だめだろう。すっかり五年前の通りだ。」
「だから、あたしはあんたに山師をやめろといったんじゃないか。おじいさんもあんなにとめたんじゃないか。」おかみさんはおろおろ泣きはじめました。すると主人が俄かに元気になってむっくり起きあがりました。
「よし。イーハトーブの野原で、指折り数えられる大百姓のおれが、こんなことで参るか。よし。来年こそやるぞ。ブドリ。お前おれのうちへ来てから、まだ一晩も寝たいくらい寝たことがないな。さあ、五日でも十日でもいいから、ぐうというくらい寝てしまえ。おれはそのあとで、あすこの沼ばたけでおもしろい手品(てづま)をやって見せるからな。その代り、今年の冬は、家じゅうそばばかり食うんだぞ。おまえそばはすきだろうが。」それから主人はさっさと帽子をかぶって外へ出て行ってしまいました。ブドリは主人に云われた通り納屋へ入って睡(ねむ)ろうと思いましたが、何だかやっぱり沼ばたけが苦になって仕方ないので、またのろのろそっちへ行って見ました。するといつ来ていたのか、主人がたった一人腕組みをして土手に立って居りました。見ると沼ばたけには水がいっぱいで、オリザの株は葉をやっと出しているだけ、上にはぎらぎらと石油が浮かんでいるのでした。主人が云いました。
「いまおれこの病気を蒸し殺してみるとこだ。」
「石油で病気の種が死ぬんですか。」とブドリがききますと、主人は、
「頭から石油に漬けられたら人だって死ぬだ。」と云いながら、ほうと息を吸って首をちぢめました。その時、水下(みずしも)の沼ばたけの持主が、肩をいからして息を切ってかけて来て、
「何だって油など水へいれるんだ。みんな流れて来て、おれの方へはいってるぞ。」
 主人は、やけくそに落ち着いて答えました。
「何だって油など水へ入れるったって、オリザへ病気ついたから、油など水へ入れるのだ。」
「何だってそんならおれの方へ流すんだ。」
「何だってそんならおまえの方へ流すったって、水は流れるから油もついて流れるのだ。」
「そんなら何だっておれの方へ水来ないように水口(みなくち)とめないんだ。」
「何だっておまえの方へ水行かないように水口とめないかったって、明日こはおれのみな口でないから水とめないのだ。」
 となりの男は、かんかん怒ってしまってもう物も云えず、いきなりがぶがぶ水へはいって、自分の水口に泥を積みあげはじめました。主人はにやりと笑いました。
「あの男はむずかしい男でな。こっちで水をとめると、とめたといって怒るから、わざと向うにとめさせたのだ。あすこさえとめれば、今夜中に水はすっかり草の頭までかかるからな。さあ帰ろう。」
 次の朝ブドリはまた主人と沼ばたけへ云ってみました。主人は水の中から葉を一枚とってしきりにしらべていましたが、やっぱり浮かない顔でした。その次の日もそうでした。その次の日もそうでした。その次の朝、とうとう主人は決心したように云いました。
「さあブドリ、いよいよここへ蕎麦播きだぞ。おまえあすこへ行って、となりの水口こわして来い。」ブドリは云われた通りこわして来ました。石油の入った水は恐ろしい勢いでとなりの田へ流れて行きます。きっとまた怒ってくるなと思っていますと、ひるごろ例のとなりの持主が、大きな鎌をもってやってきました。
「やあ、何だってひとの田へ石油ながすんだ。」
 主人がまた、腹の底から声を出して答えました。
「石油ながれれば何だって悪いんだ。」
「オリザがみんな死ぬでないか。」
「オリザみんな死ぬか、オリザみんな死なないか、まずおれの沼ばたけのオリザ見なよ。今日で四日頭から石油かぶせたんだ。それでもちゃんとこの通りでないか。赤くなったのは病気のためで、勢いのいいのは石油のためなんだ。おまえの所など、石油がただオリザの足を通るだけでないか。却っていいかもしれないんだ。」
「石油こやしになるのか。」向うの男は少し顔いろをやわらげました。
「石油こやしになるか石油こやしにならないか知らないが、とにかく石油は油でないか。」
「それは石油は油だな。」男はすっかり機嫌を直してわらいました。水はどんどん退き、オリザの株は見る見る根もとまで出て来ました。すっかり赤い斑(まだら)ができて焼けたようになっています。
「さあおれの所ではもうオリザ刈りををやるぞ。」
 主人は笑いながら云って、それからブドリといっしょに、片っぱしからオリザの株を刈り、跡へすぐ蕎麦を播いて土をかけて歩きました。そしてその年はほんとうに主人の云ったとおりブドリの家では蕎麦ばかり食べました。次の春になりますと主人が云いました。
「ブドリ、今年は沼ばたけは去年よりは三分の一減ったからな、仕事はよほど楽だ。その代りおまえは、おれの死んだ息子の読んだ本をこれから一生けん命勉強して、いままでおれを山師だといってわらったやつらを、あっと云わせるような立派なオリザを作る工夫をして呉(く)れ。」そして、いろいろな本を一山ブドリに渡しました。ブドリは仕事のひまに片っぱしからそれを読みました。殊(こと)にその中の、クーボーという人の物の考え方を教えた本は面白かったので何べんも読みました。またその人が、イーハトーブの市(し)で一ヶ月の学校をやっているのを知って、大へん行って習いたいと思ったりしました。
 そして早くもその夏、ブドリは大きな手柄をたてました。それは去年と同じ頃、またオリザに病気ができかかったのを、ブドリが木の灰と食塩(しお)を使って食いとめたのでした。そして八月のなかばになると、オリザの株はみんなそろって穂を出し、その穂の一枝ごとに小さな白い花が咲き、花はだんだん水いろの籾(もみ)にかわって、風にゆらゆら波をたてるようになりました。主人はもう得意の絶頂でした。来る人ごとに、
「何のおれも、オリザの山師で四年しくじったけれども、今年は一度に四年前とれる。これもまたなかなかいいもんだ。」などと云って自慢するのでした。
 ところがその次の年はそうは行きませんでした。植付けの頃からさっぱり雨が降らなかったために、水路は乾いてしまい、沼にはひびが入って、秋のとりいれはやっと冬じゅう食べるくらいでした。来年こそと思っていましたが次の年もまた同じようなひでりでした。それからも来年こそ来年こそと思いながら、ブドリの主人は、だんだんこやしを入れることができなくなり、馬も売り、沼ばたけもだんだん売ってしまったのでした。
 ある秋の日、主人はブドリにつらそうに云いました。
「ブドリ、おれももとはイーハトーブの大百姓だったし、ずいぶん稼いでも来たのだが、たびたびの寒さと旱魃(かんばつ)のために、いまでは沼ばたけも昔の三分の一になってしまったし、来年は、もう入れるこやしもないのだ。おれだけでない、来年こやしを買って入れれる人ったらもうイーハトーブにも何人もいないだろう。こういうあんばいでは、いつになっておまえにはたらいて貰った礼をするというあてもない。おまえも若いはたらき盛りを、おれのとこで暮してしまってはあんまり気の毒だから、済まないがどうかこれを持って、どこへでも行っていい運を見つけてくれ。」そして主人は一ふくろのお金と新らしい紺で染めた麻の服と赤革の靴とをブドリにくれました。ブドリはいままでの仕事のひどかったことも忘れてしまって、もう何にもいらないから、ここで働いていたいとも思いましたが、考えてみると、居てもやっぱり仕事もそんなにないので、主人に何べんも何べんもお礼を云って、六年の間はたらいた沼ばたけと主人に別れて停車場をさして歩きだしました。


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